歴史街道「萩往還」とは

萩往還は、慶長の年(1604年)萩城築城後、毛利公の「お成り道」として開かれました。城下町萩(萩市)と瀬戸内の港三田尻(防府市)をほぼ直線で結んでおり全長はおよそ53キロメートルです。
もとは参勤交代道として整備された道でしたが、庶民にとっても山陰と山陽を結ぶ陰陽連絡道として重要な交通路となりました。幕末には、吉田松陰をはじめ維新の志士たちが往来しており、歴史の上で重要な役割を果たしました。萩往還は「国指定史跡」「歴史の道百選」「美しい日本の歩きたくなるみち」「夢街道ルネサンス」「日本風景街道」などに指定や選定もされています。こうした様々な歴史が刻まれた「萩往還」を歩いてみませんか。

佐々並の町並みが見たもの

1.参勤交代

1年おきに江戸と国元を往復した。妻子は人質として江戸在府
・毛利家 36万石=9万俵=8億9千万円(JA平成22年買取 1俵9,840円)
・参勤交代+江戸住まい≒6億円


2.大名行列

春の江戸参勤・下向
・規模 通常1,000人弱、多い時は1,644人
・佐々並市では休息をとった。 ・宿泊は、山口又は三田尻
・佐々並市での加勢 馬127頭、人夫143人
これらは3日前から待機していた。(元文4年の記録)


3.幕府巡見使

幕府が将軍が変わるたびに派遣していた。


4.飛脚

ペリー来航(嘉永6年、1853年)を伝えた飛脚
・「来たこと」を伝えた飛脚 江戸6月7日→佐々並市6月16日朝7時-9日
・「上陸」を伝えた飛脚   江戸6月10日→佐々並市6月16日夕6時
飛脚亀之進が、6日と12時間で、約1,000kmを走破した。


5.吉田松陰先生

江戸から罪人として萩に戻る時に佐々並を通る。
・佐々並到着 安政元年(1854)10月23人 警護者21人
・ペリー到来は1853年

 旧旭村について

 旭地域は、昭和28年町村合併促進法公布施行に伴い、旧明木村と、旧佐々並村との合併を決議し、新名を「旭村」として昭和30年4月1日に発足し、H17.3月6日に「萩市」として現在に至っている。

 旭地域は山口県のほぼ中央、中国山地の日本海側に位置し、北は萩市、東は川上村及び阿東町、南は山口市、西は美祢郡美東町にそれぞれ接している。

 旭地域は東西14㎞、南北18㎞、面積137.0k㎡となっているが、林野が全体の91%を占め、耕地は4%にすぎない。近年は転作、休耕などが進み、土地利用率が低下してきている。

 気候は山陰型とはいえ、寒暖の差が激しく、特に冬季は低温となり寒さが厳しい。

 古くから江戸への参勤交代の通過地として、交通の要所となり発展してきた。このため萩往還を中心に、吉田松陰東送の碑、上長瀬一里塚、鹿背坂隊道など多くの歴史的、文化的遺跡が見られる。また彦六又十郎の碑、大下や矢代の神楽、日南瀬の首切れ地蔵など民間信仰や伝説、民話も伝わっている。

 人口は昭和35年から50年にかけて急激に減少し、昭和45年に過疎地域の指定を受けた。また、65才以上の高齢者の割合が高く、今後も高齢化は進む傾向にある。

 主な交通機関は道路で、防府・萩間を結ぶ国道262号と萩-小郡間を結ぶ県道が村を南北に走っており、これが本村の重要幹線である。

旭村昔話(現:萩市旭地域)

彦六・又十郎物語

 毛利の殿様が、萩にお城を造りなさるようになってから、年貢米のとりあてが、えらいきびしゅうなってのう。村の暮らしは、ひどいものじゃった。

 そりゃあ、お城を造るにゃあ、ようけ銭がいるし、中国八カ国におったお武家様が、一緒にきんさったのじゃから、その人たちにお給金もあげにゃあならんし、しょうのないことじゃったろう。

 つくる米みゃあ、はしからもって行かれて、食べるもなぁないし、着るもんにしても、ありゃあいけん、こりゃあいけん、ちゅうて、やかましかった。

 ええ日よりに畑に出ようと思うと、お城造りや、殿様の道づくりがあって、仕事ができゃあせんかった。

でものう、みんなよう辛抱して働きよった。この辺の山ぁ、みんな草が立っちょって、夏の暑い日にゃあ、みんな刈って、田のこやしにしよった。冬にゃあ、奥山へ行って炭を焼いたり、わるきを作ったり、小木やはなしばを採って、萩に売りに行きよった。

 椿の大屋に、口屋ちゅうのがあってのう、そこで口屋銭(こうやせん)ちゅうて、売りに行く炭俵の数で税金をとられよった。そこの役人が、また悪い奴で、村の者から、きまりよりようけ口屋銭をとって、自分の酒代にしよった。

 昼間から酒をくろうと、赤ぁ顔をして、「にたぁ」と笑うと、背筋が寒くなりよった。「どねえかならんのか」ちゅうて、みんな悪口ぅいいよった。

 慶長九年(一六〇四)に、指月山のところに、城を造ることになったが、あの山あ、海の中に浮いた島みたいで、 どろで埋めんことにゃあ、どうにもならんかった。埋めるにゃあ、石垣うようけ組まんといけんかった。

 それで、城造りがはじまると、古戦場の彦さんや、 菅蓋の又さんが、石垣う組みに行った。

 二人とも大男で、力が強うて、三十六貫(百三十 五キロ)もあるげんのうを使う仕事師じゃったから普通の者の倍も三倍も仕事をした。

 遠方からでも、彦さんと又さんの仕事ぶりは、わかるほどじゃった。

 四年たって、お城ができたとき、二人があんまり よう仕事をしたから、殿様が、
「何かほうびをやろう。」
っていわれたが、二人とも、
「ほうびはいらんけえ、村の者が、大屋の口屋銭を払えようにしてつかさい。」
とお願いしたそうな。

 殿様は、二人の心掛けに感心して、その願いをかなえられたちゅうことだ。

 まあ、こういうことで、それからあ、村の者は、口屋のあの赤あ顔をした役人の前を素通りできるようになった。

 ありがたい話ですのう。(言伝え)

 西来寺の門前にある「同会 古泉城彦六 菅蓋又十郎」の碑の裏面には、「彦六、又十郎の両名が、萩城の築城に際して、大変精を出して働いたので、その賞として、二人の願いにより、明木村で薪をつくったり、炭を焼いたりして、 萩に売りに行くとき、いちいちお上に願い出なくてもよくなった。」と書かれている。

 当時は、山の木を切るにも、物を売るにも、願い出て許可を得なければならなかったようだ。口伝の内容とは異なるけれど、彦六・又十郎の二人が、自分達に与えられたほうびを、自分達だけのものにしないで、村人に分かち与え 美談にちがいはない。

 なお、今日でも、毎年四月十五日に二人の供養のための法華会が、西来寺で営まれている。」

弥三郎きつね

貴布祢神社

 

 毛利の殿様が萩に移られて、萩と三田尻に往還ができてから、佐々並市は、宿場町として大そう繁昌しました。夜のとばりがおりる暮六ツ頃になると、江戸から帰って来られたお侍や、これから江戸へ向かわれる方々で、はたごは、上を下へのにぎわいでした。なかでも、毛利のお武家様の常宿である土山屋は、ひときわ賑わっておりました。

 その頃のことです。三田尻の車塚に、弥三郎という名のきつねが住んでおりました。この弥三郎は、ひどく好奇心の強いきつねで、あるとき、大勢のお武家様を、したがえて進む殿様行列を見て、あとをつけてみたくなりました。

 ゆっくり進む行列の、あとになりさきになりながら、つけて行きました。ときおり、仲間(ちゅうげん)を従えた一人歩きのお侍に出会いました。

 行列が佐々並の市に着いて、お武家様が、それぞれはたごに入っていくのを、貴布祢神社から眺めて、その夜は、神社の森で休みました。

 翌日、行列は、まだ日の高い頃に萩に着きました。三田尻よりにぎやかな萩の街を歩いていきますと、田中の荒神様に来ました。と、その境内に弥三郎が、今まで見たこともないきれいな毛並みの美しいきつねがおるではありませんか。

 一瞬、いなずまを受けたような衝撃が、全身をはしりぬけました。弥三郎は、はやる心をじっとおさえて、女ぎつねに近づき、さりげなく初対面のあいさつをしてみました。

 女ぎつねの名は、おさんといいました。話しているうちに、おさんも弥三郎が好きになりました。そこで、おさんの案内で、萩の街を見物することになりました。そして夜弥三郎は、おさんのすすめで萩に泊まりました。

 翌日、二人はまた会うことを約束して、別れました。

 三田尻に帰った弥三郎は、おさんのことが忘れられず、また会いたくなりましたが、途中どこに泊まろうかと思案しました。佐々並の貴布祢神社の森の寒さは、耐えがたいものでした。

 そこで、思い出したのが殿様行列のことでした。一人歩きのお侍が、仲間を従えていたことや、行列の中の立派なお待が、土山屋に泊ったことです。

 さっそくお金を用意して、仲間をやとい、目鼻だちのととのった気品のある若侍に化けて、萩へ向けて出立しました。佐々並に来て、予定通り土山屋に入りました。土山屋の主人は、下へも置かぬ丁重さで、弥三郎を迎えて、上の間に案内しました。そこで弥三郎は、
「一夜の宿をお願い申すが、ちと事情があるので、仲間には別の部屋をご用意いただきたい。また、拙者の部屋の準備ができて食膳を運ばれたら、翌朝までは、一切おかまいなく願いたい。」
といって普通の人の倍の宿賃を主人に渡しました。主人は、さっそく女中を集めて、弥三郎の申し出を伝えるとともに、廊下での立聞きや、のぞきみを堅く禁じました。

 こうして弥三郎は、年に何回か土山屋に泊って、萩のおさんに会いに行っておりました。

 何年か過ぎたある日のことです。つとめはじめたばかりの女中が、弥三郎の部屋係になりました。女中は、気品あふれる若侍の部屋係りになって、心をはずませて、部屋の準備をしながら、いろいろと話しかけますが、弥三郎は一 言も口をきいてくれません。夕方、食膳の用意ができました。上品な口もとをした若侍が、二合近くはいっている物棺のご飯を、どうして食べるか、その所作を見たいと思いましたが、女中の前では著に手をつけようとしません。

 仕方なく女中は、部屋を下がりました。一旦は階段を降りましたが、どうしても見たくてたまりません。

 再び、そっとひき返して若侍の部屋をうかがいました。その時、弥三郎の姿が、にぶい行燈に照らされて障子に写 っていました。まぎれもなく若侍は、食事をしています。しかし、物音ひとつしません。女中は、もうこらえきれなくなりました。

 とうとう禁を犯して、のぞきみをしてしまいました。これに気付かぬ弥三郎ではありません。さっと姿をかえて、 宿を出て行きました。そして、二度と土山屋に泊らなくなりました。

 このことがあってから、隆昌をきわめていた土山屋から、時代の流れの影響もあったのでしょう。しだいに客足が遠のいたということです。(佐々並村史より)

物相・・・・・・ご飯を盛る食器、一〜二合はいった。

大名行列
行列は、往還(江戸へ向うこと)、下向(江戸から帰って来ること)とも山口と三田尻に泊った。
記録に残る一番大規模な行列は、貞享元年(一六八四)吉就初下向の千六百六十三人である。その後少なくなって、宝暦二年(一七五二)重就初入国の時は、五百六十四人となっている。大体平均千人程度であった。(萩往還より)

木村源内の化物退治

 むかし、川上村の大四郎山の搭の岩ほら穴に、母ぎつねと子ぎつねが住んでおりました。山深いこのあたりでは、獲物が多く、母子きつねは、人間と同じように、鹿の皮をなめして敷物にしたり、冬の日のために、足袋を作ったりして、ぜいたくともいえる生活をしておりました。

 そうしているうちに、子ぎつねは、だんだん成長して、年頃の娘ぎつねになりました。この娘ぎつねは、人間に近い生活が身に付いたのか、仲間のきつねを相手にせず、人間に興味をもちはじめました。

若宮社

 

 母ぎつねは、娘をいましめますが、娘はどうかして、人間のお嫁さんになろうと考えました。そして夜な夜な、村人を化かしては、いいよりますが、だれも相手にしません。そこで、娘ぎつねは、村人を深い谷に連れ出しては、突き落として殺してしまいました。

 そのころ、関ヶ原の戦いに敗れた真田幸村の部下で、近江国の木村源内という武士が、家来数名とともに、佐々並の大下に落ちてきました。源内は、大そう男ぶりが良く、大きなまつげに、ぎよろりとした目、鼻筋のよく通った、みるからに精悍でたくましいお侍でした。

 庵も出来て、仮住まいの生活もようやく落ち着いたある夜、源内が床に入って寝つこうとしますと、枕もとでかさこそともの音がします。うっすらと目を開いてみますと、年の頃20前後の美しい女が、そそくさと足袋をはいております。そのしぐさがいかにも艶めかしく、「はっ」と目を開いて起きようとしますと、もう、その姿はありませんでした。

 そして、女のいた場所に、「鹿の玉」が一つ残されていました。それから、毎晩同じ事がくり返されます。不思議に思った源内は、このことを家来に話しますと、
「わたしどもも、殿がお休みになると、もの音がしますので、不思議に思っておりました。そればかりか、殿のお部屋には、これまでついぞ見たこととのない『鹿の玉』が置いてありますので、これはきっと化物のしわざではないかと申しておりました。」と申します。

 そこで源内は、次の夜、居間のいろりに火を焚かせて、家来共に見張りをさせ、自分は、刀をふとんの中にかくしもって待つことにしました。

 ところが、その夜に限って、女は姿をみせません。夜もふけて、家来共も昼間のなれない畑仕事の疲れで、ついうとうととしていました。

 源内も、「もう、こんなにおそく来ないだろう」と、にぎっていた刀の手をゆるめ、目を閉じました。

 しばらくすると、例のかさこそという音がします。どこからともなく、女は現れて、片方の足袋をはいて、もう一方の足袋をはこうとしています。

 源内は、とび起きざま、ここぞとばかり「エイッ!」と抜き討ちに女に切りかかりました。源内の少しの油断で、女は一瞬早くとび退り、その場で殺すことはできませんでしたが、たしかに手応えはありました。

 一方、居間にいた家来共も、源内の声に「はっ」と目を覚ましました。すると、一匹の大きな女狐が、いろりにかけてあった鍋に跳び移り、じざいかぎをつたって、天井に登って逃げて行きます。見れば鍋の蓋に、血こんが残っています。

 そこで、折からの月明かりをたよりに、血の跡を辿って行きますと、大四郎山の塔の岩の上で、傷ついて息も絶え 絶えの娘弧に、母狐が、
「親のいいつけを守って、人間なんか好きにならなかったら、こんなことにならなかったのに。」
と涙を流してさとしていました。

 その後、村人はきつねに化かされて谷底に落ちて死ぬこともなく、平和に暮せるようになりました。

 源内も、そこに立派な家を構えて永住しました。源内の死後、その武勇と徳をたたえるために、佐々並権現社の境内に、社を建て、若宮社と呼んで、毎年九月二十五日に祭礼を行なっています。(言伝え)

 

 一八四五年頃の記録に「木村家には、女狐がもって来た鹿の玉と、源内が切りつけたときに、狐が残した鹿の皮足袋と、その時使った脇差一腰が伝わっている」とある。

 また、大下の墓地にある古い墓に真田姓のものがあり、このことは、木村源内をはじめ、一緒に来た武士が、真田 一族に関係あることを証明しているのではないか、といわれている。

首切れ地蔵(くびきれじぞう)

 むかしむかし、それは萩にお城ができて50年ばかりたった明暦の頃でございます。山口の宮野に、渡辺様と申されて、囲碁のたいそう強いお武家様が住んでおられました。その頃、萩の法華寺で、お武家様方の囲碁の会がもよおされ、渡辺様もはるばる萩までおでかけなりました。

 渡辺様のお相手は、高麗左衛門という方で、この方もまたたいそう囲碁の強いお方でございました。お二人の勝負は、盤上に火花を散らすはげしいものになりました。勝負も終わりに近づいた頃、石の置き方でとうとう喧嘩となり、高麗左衛門様が、刀に手をかけ渡辺様に切りかかられたのでございます。とっさのことで、渡辺様は、身をかわすひまもなく、その場でお亡くなりになりました。

 渡辺様の下僕の源助は、このことを聞いてひどく悲しみ、せめて主人のお墓のそうじをして、お花や線香を供えようと、萩にやって参ったのです。そして、くる日もくる日も、お墓参りをしておりましたが、そのうちお金もなくなりましたので、商いをはじめました。根が働き者の源助は、朝早くから商いに精を出しました。それでも主人のことは、いっときも忘れられず、毎日墓参りを欠かしませんでした。源助のこの忠節を、天も感じられたのでございましょう、商いもだんだん繁盛するようになりました。

 そんなある日、源助は長いこと会っていない宮野村の主人のお子さまのことが、気がかりになってまいりました。また、両親のお墓にもお参りしようと思い立ち、宮野へ帰ることにしました。

 旅の支度をととのえた源助は、朝暗いうちに萩を立ちました。明木の市を過ぎて、一升谷にさしかかった頃には、夜もすっかり明け、朝日をうけて若葉の露がまぶしいばかりに光っておりました。いくつもの峠を越えて、佐々並の市についた時は、もう昼近くになっておりました。ここで、昼食をとることにしましたが、少しでも早く宮野へ帰ろうと思いましたので、ひろげたべんとうも、そこそこで出立しました。

 そして、宮野への近道のある日南瀬にさしかかりましたとき、これまでのはりつめていた気持ちがゆるんで、どっと疲れがでました。そこで源助は、道のそばの切り株に腰をおろして休んでいますと、ついうとうとして参りました。

 そうしますと、夢ともなく、現(うつつ)ともなく、
「汝が休みたる下に我が形あり、掘り出して道の側に直しなば、汝の願いも成就し、なお、往来の人、家名を唱え、信心なる輩(やから)には、その縁によって済度せん。我は、即ち地蔵菩薩なり。」と大そう威厳のあることばでお告げがございました。

 驚いた源助は、大急ぎで村人を呼んで、あたりを探しておりますと、沼の中に、頭だけの地蔵尊がみつかったのでございます。

 さっそく石を重ねてその上にすえ、お坊さんを呼んで供養いたしました。

 その後、幼主も成長されて、めでたく仇討ちを果たすことができたのでございますが、これはひとえに地蔵菩薩のおかげと、その後も手厚く供養を続けたのでございます。

 これを聞き伝えた村人も、だんだんお参りするようになり、祈願も増してきたそうでございます。このお地蔵は、はじめから首がはなれていたので、首切れ地蔵と申したそうでございます。(言伝え)
(下小木原の旧道にも、外観がよく似た首切れ地蔵がある。)

淵が平の滝

 この滝の滝壺は、雨乞い淵(あまごいぶち)と呼ばれている。その昔、佐々並の村里がひどくかんばつになり、大下地区が特に大きな被害を受けた。

 そこで、大下の人々は、この滝壺の水を汲み出して、わらを焚いて天に祈願した。人々の熱意が、天に通じて雨が降った。

 だが、市の人々が、自分達の地区に来る淵の水を勝手に汲み出したことに腹を立てたと伝えられている。

 この淵付近の岸壁は、よく崩れ落ちた。そこで岩が落ちて水路をふさいだり、水路を見回りに来る人に落ちてけがをさせたりしないように、弘法様がまつられている。

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