彦六・又十郎物語
毛利の殿様が、萩にお城を造りなさるようになってから、年貢米のとりあてが、えらいきびしゅうなってのう。村の暮らしは、ひどいものじゃった。
そりゃあ、お城を造るにゃあ、ようけ銭がいるし、中国八カ国におったお武家様が、一緒にきんさったのじゃから、その人たちにお給金もあげにゃあならんし、しょうのないことじゃったろう。
つくる米みゃあ、はしからもって行かれて、食べるもなぁないし、着るもんにしても、ありゃあいけん、こりゃあいけん、ちゅうて、やかましかった。
ええ日よりに畑に出ようと思うと、お城造りや、殿様の道づくりがあって、仕事ができゃあせんかった。
木村源内の化物退治でものう、みんなよう辛抱して働きよった。この辺の山ぁ、みんな草が立っちょって、夏の暑い日にゃあ、みんな刈って、田のこやしにしよった。冬にゃあ、奥山へ行って炭を焼いたり、わるきを作ったり、小木やはなしばを採って、萩に売りに行きよった。
椿の大屋に、口屋ちゅうのがあってのう、そこで口屋銭(こうやせん)ちゅうて、売りに行く炭俵の数で税金をとられよった。そこの役人が、また悪い奴で、村の者から、きまりよりようけ口屋銭をとって、自分の酒代にしよった。
昼間から酒をくろうと、赤ぁ顔をして、「にたぁ」と笑うと、背筋が寒くなりよった。「どねえかならんのか」ちゅうて、みんな悪口ぅいいよった。
むかし、川上村の大四郎山の搭の岩ほら穴に、母ぎつねと子ぎつねが住んでおりました。山深いこのあたりでは、獲物が多く、母子きつねは、人間と同じように、鹿の皮をなめして敷物にしたり、冬の日のために、足袋を作ったりして、ぜいたくともいえる生活をしておりました。
そうしているうちに、子ぎつねは、だんだん成長して、年頃の娘ぎつねになりました。この娘ぎつねは、人間に近い生活が身に付いたのか、仲間のきつねを相手にせず、人間に興味をもちはじめました。
▲若宮社
母ぎつねは、娘をいましめますが、娘はどうかして、人間のお嫁さんになろうと考えました。そして夜な夜な、村人を化かしては、いいよりますが、だれも相手にしません。そこで、娘ぎつねは、村人を深い谷に連れ出しては、突き落として殺してしまいました。
そのころ、関ヶ原の戦いに敗れた真田幸村の部下で、近江国の木村源内という武士が、家来数名とともに、佐々並の大下に落ちてきました。源内は、大そう男ぶりが良く、大きなまつげに、ぎよろりとした目、鼻筋のよく通った、みるからに精悍でたくましいお侍でした。
庵も出来て、仮住まいの生活もようやく落ち着いたある夜、源内が床に入って寝つこうとしますと、枕もとでかさこそともの音がします。うっすらと目を開いてみますと、年の頃20前後の美しい女が、そそくさと足袋をはいております。そのしぐさがいかにも艶めかしく、「はっ」と目を開いて起きようとしますと、もう、その姿はありませんでした。
そして、女のいた場所に、「鹿の玉」が一つ残されていました。それから、毎晩同じ事がくり返されます。不思議に思った源内は、このことを家来に話しますと、
「わたしどもも、殿がお休みになると、もの音がしますので、不思議に思っておりました。そればかりか、殿のお部屋には、これまでついぞ見たこととのない『鹿の玉』が置いてありますので、これはきっと化物のしわざではないかと申しておりました。」と申します。
そこで源内は、次の夜、居間のいろりに火を焚かせて、家来共に見張りをさせ、自分は、刀をふとんの中にかくしもって待つことにしました。
ところが、その夜に限って、女は姿をみせません。夜もふけて、家来共も昼間のなれない畑仕事の疲れで、ついうとうととしていました。
弥三郎きつね
毛利の殿様が萩に移られて、萩と三田尻に往還ができてから、佐々並市は、宿場町として大そう繁昌しました。夜のとばりがおりる暮六ツ頃になると、江戸から帰って来られたお侍や、これから江戸へ向かわれる方々で、はたごは、上を下へのにぎわいでした。なかでも、毛利のお武家様の常宿である土山屋は、ひときわ賑わっておりました。 その頃のことです。三田尻の車塚に、弥三郎という名のきつねが住んでおりました。この弥三郎は、ひどく好奇心の強いきつねで、あるとき、大勢のお武家様を、したがえて進む※殿様行列を見て、あとをつけてみたくなりました。 ゆっくり進む行列の、あとになりさきになりながら、つけて行きました。ときおり、仲間(ちゅうげん)を従えた一人歩きのお侍に出会いました。 行列が佐々並の市に着いて、お武家様が、それぞれはたごに入っていくのを、貴布祢神社から眺めて、その夜は、神社の森で休みました。 翌日、行列は、まだ日の高い頃に萩に着きました。三田尻よりにぎやかな萩の街を歩いていきますと、田中の荒神様に来ました。と、その境内に弥三郎が、今まで見たこともないきれいな毛並みの美しいきつねがおるではありませんか。 一瞬、いなずまを受けたような衝撃が、全身をはしりぬけました。弥三郎は、はやる心をじっとおさえて、女ぎつねに近づき、さりげなく初対面のあいさつをしてみました。 女ぎつねの名は、おさんといいました。話しているうちに、おさんも弥三郎が好きになりました。そこで、おさんの案内で、萩の街を見物することになりました。そして夜弥三郎は、おさんのすすめで萩に泊まりました。 翌日、二人はまた会うことを約束して、別れました。 三田尻に帰った弥三郎は、おさんのことが忘れられず、また会いたくなりましたが、途中どこに泊まろうかと思案しました。佐々並の貴布祢神社の森の寒さは、耐えがたいものでした。 首切れ地蔵(くびきれじぞう)むかしむかし、それは萩にお城ができて50年ばかりたった明暦の頃でございます。山口の宮野に、渡辺様と申されて、囲碁のたいそう強いお武家様が住んでおられました。その頃、萩の法華寺で、お武家様方の囲碁の会がもよおされ、渡辺様もはるばる萩までおでかけなりました。 渡辺様の下僕の源助は、このことを聞いてひどく悲しみ、せめて主人のお墓のそうじをして、お花や線香を供えようと、萩にやって参ったのです。そして、くる日もくる日も、お墓参りをしておりましたが、そのうちお金もなくなりましたので、商いをはじめました。根が働き者の源助は、朝早くから商いに精を出しました。それでも主人のことは、いっときも忘れられず、毎日墓参りを欠かしませんでした。源助のこの忠節を、天も感じられたのでございましょう、商いもだんだん繁盛するようになりました。 淵が平の滝
▲弘法様 この滝の滝壺は、雨乞い淵(あまごいぶち)と呼ばれている。その昔、佐々並の村里がひどくかんばつになり、大下地区が特に大きな被害を受けた。 旧旭村について旭地域は、昭和28年町村合併促進法公布施行に伴い、旧明木村と、旧佐々並村との合併を決議し、新名を「旭村」として昭和30年4月1日に発足し、H17.3月6日に「萩市」として現在に至っている。 |